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引っ越しに伴うお休みの件 [身辺雑記]

 しばらく更新が出来ていませんが、住居を引っ越したところです。

新居(と入っても築40数年の私の実家)がまだ片付いていないので当分更新はお休みとなります。NTTは目下、引っ越しシーズンの影響で回線工事がてんてこ舞い状態なのだそうで我が家への回線敷設は5月9日となります。よってそれまでの間我が家からネットへのアクセスは出来ない状態です。

 ここ一ヶ月ばかりは色々な意味で心機一転風な環境変化があったため、再開後はお仕事仲間とお遊び的に新規のブログを立ち上げてみる構想もあります。


タグ:引っ越し
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Stride Right/Johnny Hodges and Earl HInes(ストライド・ライト/ジョニー・ホッジス、アール・ハインズ) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 ベニー・グッドマンに遅れること5年の1943年、黒人ミュージシャンとして初めてカーネギー・ホールのステージに立ったデューク・エリントンは定番ナンバーDaydream を演奏する前にこういう前口上でバンドの至宝を聴衆に紹介した。

All american No.1 saxophonist,Johnny Hodges!!

   ひいき目を抜きにしても実にシビレるMCだ。

jhodges.jpg
 
ある人はこんな風にも書いた。『彼は死の直前まで、ただの一つもつまらない音を出した事がなかった』
 
 ジョニー・ホッジスは1年少々の期間を除き、その経歴の全てをエリントン・オーケストラの一員として過ごした。何と通算40年弱をだ。 彼程のスタープレイヤーとしてこれは異例のキャリアだ。見方を変えれば御大にとっては何が何でも手元に置いておきたいだったとも想像出来るわけで、『余人を持って買え難い』とはまさにこういう事なのではなかろうか。
 
  実際、何故デューク・エリントンのレコードを買うのかと自問した時、それは勿論リーダーの音楽性への傾倒もあるがもしかしたらそれと同じかもっと強い理由としてジョニー・ホッジスのソロが聴けるからというのがある。 ここは大いにひいき目の入ったものいいだが、エリントンのオーケストラが輩出した幾多のソロイストのうち、最も思い入れの深いプレイヤーを誰か一人と問われれば私は迷わずジョニー・ホッジスを挙げる。   これは無い物ねだりに決まっているのだが、エリントン・オーケストラのレコード一枚の中でジョニー・ホッジスのフィーチュアリングナンバーがそうそう沢山あるわけでもない。少々気恥ずかしい喩えだが私に取ってエリントン・オーケストラでのジョニー・ホッジスのソロはショートケーキに乗っかったイチゴとか、マティニのグラスに添えられたオリーブとかいったもののようだ。
 
 ならばソロアルバムを蒐集すれば良いのだ。真面目にディスコグラフィーを調べてみたことはないがヴァーブだけでも実に40枚以上のレコーディングが残されているという。だが惜しいことに普通に入手できる盤は大体いつの時期もせいぜい3、4枚程度でしかないのでなかなかコレクションが進まない。一枚数万円もの出費をして有難いオリジナルプレスを物色することも私の場合はない。
 
  更に言えば、これまで数枚購入したソロアルバムのうち殆どは共演者の勘所はエリントニアンが中心であるボス抜きセッションみたいな内容のものが多く、私にとっては何か今ひとつ物足りない気がしていた。ソロアルバムであることの必然性が今ひとつ弱いような印象がある。大体全ての収録曲でソロが聴けるのだからそれだけでも有り難いはずのだが一つが満たされると次の一つが欲しくなる、全くもって身勝手というか贅沢というか。   
 
  言い換えるとこうだ。ジョニー・ホッジスの毎度何とも堂に入った吹奏、あれはエリントニアン達のバックアップによる背景作りとの相乗効果で生み出されているものではあるまいか。例えばワン・ホーンでの他流試合みたいなセッティングでの演奏を聴いてみたいという願望は常にあった。そんなわけである時見つけた本作の中古盤には1も2もなく飛びついた。変な言い方だがアウェーでの演奏、勘所とお
 もわれるピアニストが唯我独尊風の共通項を持つアール・ハインズであるところが尚更興味をそそった。
 
 
ストライド・ライト(紙ジャケット仕様)

 

 

 

ストライド・ライト(紙ジャケット仕様)

 
 
 
 
 その経歴のすべてを通じて、アール・ハインズはいついかなる場面であっても彼以外の誰かであることはない。本作に於いてもそれは例外でなく、彼は頑としてエリントニアン風であろうとはしない。従ってこの、双頭セッションに於けるもう一方の主役をエリントニアンとして接しているわけではない。結果としてその相対し方はジョニー・ホッジスの、サキソフォニストとしての素の姿を浮き上がらせることに成功している。そしてジョニー・ホッジスはというとこれまたいついかなる場合でも他の誰でもない彼自身であることを示しつつ、その芸風は私の予想以上にエリントン風以外の演奏スタイルにも納まりというか馴染みの良いものであることを明かしてみせたのだった。もやのように立ちこめるホーンアンサンブルから浮き上がるいつもの佇まいではなく、ここでのアール・ハインズは共演者に対していつもそうであるようにサックスのパッセージの合間合間に遠慮なくガンガンとリズミックなカウンターを刻み込んでいく。に多少想像を逞しくして聴き入っているとその身振りは野太く豪快なキータッチのせいも相まって何と言うか、『たまには俺の流儀でやるのも結構いいだろ?あ?』と呼びかけているようで、いつに変わらぬジョニー・ホッジスのポーカーフェイスぶりとのコントラストが本作の核だろう。大御所二人の身振りは噛み合っているんだかいないんだかわからないがとにかくアール・ハインズの用意した堂々たる開放感や明快さはエリントンの音楽には求め得ないものだ。  
 
 どの曲にも随所に手を叩きたくなる瞬間が連続する本作だが、個人的にエリントン・ナンバーのPardidが理屈抜きに楽しい。リズムセクションの若い衆三名は律儀にエリントニアン風に工夫を凝らす。特にドラマーはソニー・グリアー風、ケニー・バレルはフレッド・ガイ調のコードワークをギターで演じてみせる。ここでの主役お二方の対応ぶりは何とも滋味深い。 全体の構図としてはリラックスしたビッグ2のダイアローグであり、間を取り持つリズムの若い衆3人が良質な触媒となるべくあれこれと気配りをして引き立て役に徹するといった感じだろうか。すっかりオヤジになってしばしば無意識のうちに『今日日の若いもんは・・・』と口に出しそうになる私のような者にとっては羨ましいというか微笑ましいというか、ハッピーな音楽とはこういういうものだという格好のサンプルが本作だ。ジャケット写真でのお二方の表情はそのまま本作の気分を表している。考えてみるとジョニー・ホッジスの写真は大体どれもが澄まし顔であって笑っているところというのは結構珍しいのではないだろうか。

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ザ・ピーナッツの唄うEpitaph [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]


 人生のある局面を決定づけるような音楽というのはそんなに多くはないと思うが、私にとっては数少ないうちの一つにキング・クリムゾンがあった。小遣いを溜めてデビュー盤を買ってきたのがもう三十数年前の事、1973年、当時中学生だった私の精神生活は、今となっては一笑に付するしかないようなこのベストセラー本と

 
  こちらは未だにわけのわからない磁力を発し続けるやはり名盤というしかない一枚のレコードによって、その後現在に至るまでの骨格が形成されてしまった。これらが混ぜこぜになって生み出した屈折は大変否定的で悲観的で、何よりそれを抱え込んだ私自身が持て余す程暗鬱な影を落としたと思う。

クリムゾン・キングの宮殿

クリムゾン・キングの宮殿

 
 音楽愛好家として過ごしてきたおよそ40年のうち、私に最も大きな影響を及ぼしたといっても過言ではない。この音楽に遭遇しなかったら今の自分はなにかもっと違った人生を送っていたに違いないとさえ思う。 良くも悪くもこのレコードについて何かを語るとすればそれは物心ついてから現在に至るまでの私自身を語る事になる。それほど私そのものに根深いところから絡み付いている音楽だ。
 

  ここに収録されているEpitaphという曲は、少年当時の私をそれはそれは空恐ろしい程の力で呪縛したのだった。LPレコードは現在のように雑誌のような感覚で買ってきては聴き飛ばせるようなものではなかったので、当時私が所有していた5枚か6枚くらいのレコードのうちの一枚がこれであり、他に何かを聞きたくてもすぐにネタ切れになるような環境だったせいもあって無闇矢鱈と聴きまくった。

 

 ところで作品論めいた事を書くのはここでの趣旨ではない。恐らく多くの方々がこの、epitaphという曲からは何とも湿度の高い情緒性と物悲しい終末感を植え付けられた事と思う。それこそ冒頭挙げた「大予言」に出てくる恐怖の大王がどうとか言う文言にひっかけて、いつの日か訪れる壮烈な破滅のとき、その瞬間という妄想に駆られた御仁は決して私一人ではないと常々考えている。

 

 しかし今になってみてあらためて思うが、時の終わりはそのようにドラマチックにしてダイナミックなものでは全然ない。 長い時間をかけてズルズルダラダラと停滞の度合いが増していって定常的な混沌がいつ終わるともなく連続するような情景の方に今はよりリアリティを感じている。そういう意味では私はこの曲で描かれているような世界観に大きく騙され続けていた事になる。

 

 以前、それはもう30年近くも前になるが、渋谷陽一という雑誌編集者がキング・クリムゾンのデビュー盤についてその功績というのはConfusion will be my epitaph(『混乱』が私の墓碑銘となるだろう、と訳してよろしいか?)と唄ったこと以上に、そのようなメッセイージを織り込んだレコードをビートルズと競り合う程のヒット作とした事だ、と看破した。少年当時の私はそのテキストを素直に受け入れる事が出来ず、それは余りにも商業主義に重点を置き過ぎた物言いではないのかと懐疑的な立場だったが今は渋谷氏は慧眼の持ち主だったのだと見直すようになった。

 

 クリムゾンは、その後段々情緒的なものや情動的なものを希薄化させて私を含めて信者めいたリスナーを規律や論理が幅を利かすような音楽世界へと誘導していったように感じている。直近にリリースされた諸作とこのデビュー盤とを聴き比べてみると、少なくとも表面的な共通性などあまりないのではないかと多くの方が感じられるのではなかろうか。それどころかデビュー盤にて唄われたConfusion will be my epitaphという一節は特段表現者からリスナーに向けて送られた深刻なメッセージだったわけはなくただ単に、当時座付き作詞家だったピート・シンフィールドの文学的修辞に過ぎなかったのではないかなどとまで今の私は考えている。

 

 そうしてみると少年期のある時期、私が訳のわからん終末感に呪縛されていたあの時期は一体なんだったのかと一種あほらしい気分になったりもする。更に昨今、ネット上で動画をあれこれ眺めているうちにこの、情緒連綿たる終末感の曲が極東の島国においてカバーされていた事を知った。キング・クリムゾンがロックバンドとしての評価を確立してから物好きなアングラバンドがカバーしたものではない。彼らがまだ知る人ぞ知る存在だった頃、『シャボン玉ホリデー』のホステスを務めていたザ・ピーナッツがエピタフをカバーしていたというのは私が初めてこの曲を聴いたときと同じくらい衝撃的だった事を冗談抜きに白状しておきたい。


 内心どこかで「貴様ら、これがどういう歌なんだかわかって唄ってるのかよ!」とどやしつけてやりたい気分も払拭しきれないがその一方で、 歌詞は文語調だ しコーラスも見事に演歌調だし、換骨奪胎とはまさにこういう事をさしているのかと私は妙に感心したりもする。更にくわえてYou Tubeのコメント欄を読んでいくと、キャンディーズや西城秀樹までカバーしているというではないか!
 
 今の私はEpitaphを聴いて悲嘆にくれるような小僧では全くなくなったすれっからしのオヤジである。正直なところ過去の青臭い自分を思い出して気恥ずかしくなるような場面の方がよっぽど多いくらいだ。そしてこういう類いのカバーを聴いているとやはり同じように気恥ずかしいのだが、何故こっ恥ずかしい気分に襲われるのかがあらためて良くわかった。それは相手構わず、時と場合をわきまえずに情緒や情動を吐き散らかす事はいい大人としてみっともない事だという自制がいつの間にか自動的に働くような種類のオヤジが今の私だという事らしい。それを人格の成長と呼んでいいのかどうかはわからないが。
 
  今や信者にお布施をせびる教祖様の気配がないとも言えないキング・クリムゾンはこんなアイテムまでを商材としてリリースする。恐らくこれを買い込んだリスナーのうち何割かは間違いなくこれまでにもLPやCDで何度もデビュー盤を買い増し、今また性懲りもなく飛びつく人たちで、そのうちの何割かはここに収められたEpitaphのリマスターを楽しみにしているのではないかと今となっては呪縛の解けかかっている私は結構冷静に見られるようになった。演歌調のカバーを発見してからは余計そう思う。
 
クリムゾン・キングの宮殿 デビュー40周年記念エディション完全限定盤 ボックス・セット

クリムゾン・キングの宮殿 デビュー40周年記念エディション完全限定盤 ボックス・セット

  • アーティスト: キング・クリムゾン
  • 出版社/メーカー: WHDエンタテインメント
  • 発売日: 2009/12/30
  • メディア: CD
   あるときのインタビューでロバート・フリップはデビュー盤から4作目までの系譜を『若気のいたり』とドライにコメントしたという。近作を聴いているとそういった冷徹なまとめ方をいっそ痛快に思うようになった。大きく騙されていたというか独りよがりな誤解に長い事はまり込んでいた私は疑問の余地なくたわけた小僧だったのだがしかし信者の皆様、この強かなリーダーは真摯なミュージシャンであると同時に、というよりももしかしたらそれ以上に才知に長けたビジネスマンなのかもしれませんぞ。確かにその伏線らしきものは既に30年以上も前に張られている。
 
暗黒の世界

暗黒の世界

  • アーティスト: キング・クリムゾン
  • 出版社/メーカー: WHDエンタテインメント
  • 発売日: 2008/03/26
  • メディア: CD
一曲目のタイトルを思い出していただきたい。
 
Great Deciever 
 エピタフを聴いて感傷的な気分に浸るようなリスナーに向けられた『それはあなたの独りよがりな思い込み』というフリップ氏の冷笑を私は想像している。

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書を捨てよ町へ出よう(2) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

今年の始めに書き始めてみたテキストだがいかにも尻切れとんぼ風でまだまだ書き残しておきたい事があるので再開。

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2010-01-04(前回のテキスト)

『処女作に向かって前進する』という言い回しは時折聞くが、表現手段は色々あっても確かに処女作というのは表現するその人の過去の蓄積が詰め込まれているものである事が多そうなので生涯にわたるモチーフを感じ取られる事が結構あるように思う。

 それまでは文筆だったり演劇だったりの世界で既に一定の評価を確立していた寺山修司だが映画監督としては処女作である。他分野で既に一家を成した人が映画製作に携わる時にはいきなり随分と手慣れた作風で処女作をリリースする事は結構あって、周囲の人たちはそれをさして『優れた表現者はどんなカテゴリーを手がけても一定の完成度をマークするものだ』という褒め方をする。

 しかし本作は全くそうではない。訴えたい事が多すぎてまとまりがつかなくてこういう造りになってしまったのか、あるいは意図して定型のストーリー展開を突き崩したような肌触りに仕上げたかったのか今の私には判断出来ないが、良くも悪くも不器用で荒々しい手つきの感じられる映画だ。敢えてここであらすじのようなものを整理しておくと格段入り組んだ内容ではないと思う。

 主人公は家族にそれぞれ問題を抱えた高卒浪人で、人力飛行機に乗って空を飛びたいという夢想を抱えながらどこか現実とは遊離した精神生活を送っている。 そのうち家族間での軋轢が強まったり主人公の精神的支柱となる人の一種裏切り的な行いにより否応無しに現実と対峙せざるを得ない心境へと押しやられていく。当初の夢想は自分は進学を諦めて鉄工所で働き、父には屋台を買い与える事で定収入を得る家族の仕組みを作るという地点にまで矮小化せざるを得なくなる。矮小化せざるを得なくなった現実を受け入れるべく気持ちの整理をつけた途端、購入した屋台が実は盗品だった咎で警察沙汰となり矮小化された夢は遂に粉砕されてしまう。

 表層的なストーリーを強いてまとめればこんな感じだろうか。

筋立て自体はこの映画と幾分通じ合うところもありそうに思えた。寺山修司が本作を製作するにあたって意識していたかどうかはもう確かめようもなく、この辺りは私のこじつけめいた思い込みではある。

  全体のムードはかなり違うが、逼迫した生活者が生活手段を破壊されて更に逼迫するという一側面は共通しているように思えてならない。

ネット上の色々なレビューを読んでいると、いかにも時代がかっていて古臭いという否定的な感想が物凄く多いのだがこれは全く表層的な見方であって、例えば主人公は高校を卒業しただけで定職にも就けないフリーター、戦争犯罪人の負け犬とされている父は不景気で会社をクビになった失業者、ペットのウサギ以外には誰にも心を開かない妹はいじめにあって登校拒否となった引きこもり、万引きと虚言癖のある祖母は認知症、というふうに、本作での家族の佇まいはそのまま現在の私たちが抱え込んでいる病理やざらついた世間の空気に簡単に置換出来てしまう。 だからこの映画は決して時代の流れとともに風化してはいないのであって、むしろ今現在の私たちが呼吸する空気をこそ禍々しく投影しているのではないか。時代波形を感じさせるデコレーションが過剰気味なところは確かにあるが本質的には本作が扱っているテーマは物凄く普遍的だと私は考えている。

(調子に乗ってもっと書き続けてみたくなりました)


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来訪者 [再生音楽の聴取環境など]

  ここ半年ばかりの間にお仕事関係で面識の出来たHさんが実は古参のオーディオファイルであることを何かのときに知った。以来、お会いしているときには本筋のお仕事の話だけでは終わらないことが多い。

  Hさんは拙宅のターンテーブルにご興味を示された。LTAを使われたことはまだないそうだ。

 

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 これまで何度も書いてきたように、LTAにはカッターヘッドと同じ軌跡を描いてトレースするという原理上のアドバンテージはあるもののそれと引き換えに山ほど多くのハンディを抱え込むことにもなる。

 ついたてスピーカーには全帯域フラットレスポンス、振動版の前後対象動作という長所はあるがこれまた多くの欠点が原理的に存在する。 取りまとめると、私の自宅のメインシステムはDレンジと音量を欲張らないことを前提としたやせ我慢の産物である。このテキストを書いている今にして思えばHさんは数度ご来訪して冷徹に拙宅の泣き所を探り当てた模様だった。

 しばらく前のある日、HさんからLPレコード持参の上でお邪魔したい旨のご連絡があった時、ついたてスピーカーを手に入れて以来かれこれ20年強の時間がしょうもない独りよがりだったことを暴き立てられることになりそうな予感がした。やがて玄関チャイムが鳴って現れたHさんのご持参されたLPレコードのうちの一枚がこれである。

ベルリオーズ:幻想交響曲

ベルリオーズ:幻想交響曲

 

 テラークというレーベル名を目にしたとたん、予感が確信に変わった。さすがにHさんは筋金入りで甘くはない。

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テラークと言えばかの「1812年」でリミッターをかけずに本物の大砲の音を録音したプレスで名を馳せた。当時私の周辺ではあの盤をびりつかせずにまともにトレース出来たのはデンオンのDP-100だけだったように覚えている。

 こちらは同じくリミッターをかけずに(だったかな?)鐘の音がカッティングされている。録音現場から近くにある協会の鐘楼にマイクをセッティングして延々とケーブルを伸ばしてミキサーに取り込んだのだそうだ。音楽そのものの出来は当然としてプレイバックに手こずるのはこちらも「1812年』といい勝負、ということは私の持ち物であるLTAでは目を覆いたくなるような場面は容易に予想されており、実際には予想以上の無惨さでもって再生された。いやもう至る所針飛びとクリッピングの連続で持ち主としてはがっかりである。

 あらは他にも色々、嫌になるほど沢山だ。ティンパニの連打ではもろに定在波が乗ってローエンドがモヤモヤと曇る。フォルテではスピーカーのダイヤフラムがグリッドにぶつかってパンパンという付帯音が出る。挙げ句の果てには針飛びだ。みっともない事この上ない。少し前にHさんとはLTAとオフセットアームについて少し話した事があった。確かその時HさんはLTAはカンチレバー側から見たときのムービングマスが小さい点と支点が明確でない点を指摘されてDレンジの大きなレコードでは必ずなにがしかの問題が出るだろう、とご指摘されたように思う。

 それは私がこれまで薄々自覚していた事でもあったのでその時には痛いところをついてくるなあ、と、 思ったものだ。確かにこれまで意図してそうしていたわけではないが私の聴く音楽というのはそういう問題点の露見しなさそうなものばかりだった。

 何せ、音はビリつきまくり、針飛びはギャンギャン起きるぶざまなプレイバックに私は意気消沈したのだ。この状況、この心境はどういう風に例えれば良いのだろうか。とにかく大変かっこ悪い気分になったのは間違いない。腕組みをして立っているHさんをちらっと見るとポーカーフェイスであるところが尚更気まずい。 私は少なからずみっともない気分になっている旨を告げた。Hさんはわりかし平静で、今日の目的は問題点の検証であると仰る。私のターンテーブルではどうにもならないソースである事は歴然で、アームのセッティングを詰める気にもなれないというとそもそもまともにトレース出来たプレイヤー自体が幾つもないのだという。確かそのうちの一つがexclusive P3だったと仰っておられたように覚えている。

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 私の持ち物とは対極にある風貌の、重厚長大、威風堂々のターンテーブルだ。思い出してみると私がオラクル+SAL-3+(ちょっと改造) を買い込んだ頃、P3はまだ現役で、しかも金額としてはいい勝負だったはずなのだ。だが当時、私の頭の中に候補としてのP3はなかった。大体私は根がへそ曲がりなのでこういういかにも王道風の佇まいであるターンテーブルを遠ざけたい気持ちがあったのかもしれない。考えてみれば私の持ち物であるコンポーネントは全部そうだ。だからある限定された条件の範囲内でだけはそこそこ上首尾でそこから少しだけ外れると途端にダメダメなプレイバックとなる。

 ここで一つの教訓と示唆をHさんから与えられたはずなのに私はこれから改善に努めようと言う気持ちが実はない。何かやろうにも今は先立つものがないのだ、だとか1セットで全てを満たしてくれる再生システムなどはないのだからこれはこれでいいのだ、だとかいったいいわけをこねくり回しながらその後はいつもの聴取環境へと戻っていく事になる。美学の域に達しているとはとても言えないがやせ我慢もまた一つの佇まいではあると無理無理自分に言い聞かせる。


JBL L-40とお別れ [再生音楽の聴取環境など]

 最近、旧来の知人が音楽を聴き始めるようになった。愛好者が増える事は単純に喜ばしい。我が家で休眠状態になっているスピーカーを差し上げる事にした。

 

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 かなり以前になるがある方から譲り受けたものだ。 掲載した画像は実際に私が所有していたものではない。

譲っていただいた個体は片方のツィーターが凹んでいた。ありがちな話だがドームツィーターとかコーンスピーカーのセンターキャップ子供の攻撃対象になりやすい。何かしら、本能的に指で押したくなるもののようだ。

 ウーファーのウレタンエッジはぼろぼろに劣化していたので当時私はリエッジキットを買って修復した。確か三千円くらいだったと覚えている。手前味噌だが、私が手がけたにしては結構うまくいったのではないかと勝手に思い込んでいて、その後しばらく上機嫌で鳴らしていた。

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 現在、S-101のある場所にL-40はあってサブシステムとして数年使っていた。
 近々引っ越しを控えている事もあって知人に譲ったL-40だが割と気に入ってもらえているようであり私にとっても嬉しい限り。知人宅では結構活躍されているようで先日お招きに預かった私は中学生の頃やたらと聴きまくったこれ
 
ライヴ・イン・ジャパン

ライヴ・イン・ジャパン

を持参した。大音量で鳴らすと気分が中学生当時に戻っていく。
 JBLというメーカーのサウンドポリシーや使いこなしの秘伝云々は色々言われるが私はあまり物事を突き詰めて考える方ではないので単純に、大きな音でガンガン鳴らしたときが本領発揮だと考えている。
 
 新オーナーはご満悦の様子だがご家族にとっては必ずしもそうではないらしく、ここにかつての悪ガキ同士の浮かれ具合には少々影が差す事になる。まず第一にご令嬢にとっては無用にでかい物体で場所ふさぎであるらしい。ここで多少弁解がましい事を言わせていただくと、家電製品の所謂ミニコンポだとかラジカセからすれば確かにでかいのかもしれないが、これくらいの大きさは何とかご勘弁願いたいところ。次に奥方様にとってだが、趣味に没頭して家族を放置する父さんというのは快く思われない。私はやもめ暮らしだがこれは人類永遠普遍の鉄則である事は身にしみて理解しており、今回の件でも例外ではない。奥方様のいないところで50がらみのオヤジが二人、『おう、やっぱしリッチーかっこいいよなあ 』とやっている様子が絵面としてどのようなものかはさしあたり考えない。さしあたり、行き当たりばったり風で無条件に少年期に戻れる時間をただ楽しんでいる。

 


LDをどうするか [再生音楽の聴取環境など]

 今時、レーザーディスク映画を見る事に拘泥するオヤジの姿というのは傍目からするとかなり滑稽に映りそうな気がする。それは他でもない私自身の事だ。

 以前にも書いた事があるが私のところには大体100タイトルくらいのLDがあって、最後までをまともに見通せるものが暫時減少傾向にある。言い換えると再生途中でエラーが出てしまう場面がだんだん増えてきた。ソフトの側で記録面の状態をおかしな事になっているのか、それともLDプレイヤーの本体側が不調なのか、目下のところ原因の切り分けは出来ていないのでこの先どうしたものかと思案中。

 DVDが出始めの頃、その画質は全くもってお笑いぐさとしか言いようのない劣悪さで私などはせせら笑っていたのだがその一方、いずれそれはLDの画像を抜き去るであろう事はどこかで薄々予感していた。 顧みてみると我が家のLDPはおよそ10年落ちの代物で、使い倒して完全に元を取ったとは思えないが次を思案してもおかしくはないコンディションではある。それでAmazon.comを見てみると何と、同じ型式のLDPがまだ販売されている事を知って驚いた。

 もう一つ驚くのはその販売価格で、こんなに高価な機材だとは未だに信じられない。記憶違いではないと思うが以前私はこの機種を5万かそこらで購入したように覚えている。勿論新品でだ。いつの間にこんなに値上がりしたのだろう。

 しかしYahoo!!オークションなどを眺めていると嘘みたいな値段で投げ売りされているようでもある、一体どっちが本当なのか。どうせ私が見る映画といえば100円レンタルの旧作ばっかりだし引っ越しもそろそろ考えなければならないので、いっその事LDなどはきれいさっぱり処分してしまうのが賢明なのかもしれないといささかやけっぱち気味の考えも払拭しきれない。  


セシル・テイラーの動画 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 これまで長い事、音楽はもっぱらLPやCDなど、音だけを通じて接してきたわけだがこうしてパソコンを手に入れてネット上の動画をあれこれ眺める事が出来るようになるとそれまで曖昧にしか規定出来なかったものの姿がもっとはっきり見えてくるようになってきた。

 セシル・テイラーピアノは以前から大好きでレコードも結構聴いたが、リラクゼーションを求めてのことではなかった。むしろその反対で、例えてみると果たし合いの現場に居合わせて成り行きを固唾を飲んで見守る風の時間が多かったように覚えている。  

 

 

 

ある時、セシル・テイラーはクラシックバレエに造詣が深く、自らも少々嗜むらしいと何かで読んでから少し見方が変わった。

動画を見ていると尚更そう思うのだが、この人の演奏は何か、舞踏を音に翻訳していると捉えるのが一つ、接し方の作法のような気がしている。

 考えてみるとあまたのジャズ・ピアニストのうちこの人くらい多彩なキータッチを使い分けるプレイヤーは他にいないように思えている。漂うような軽さからキーを叩き抜く程の激しさまでを十全に捉えきった録音は全くと言っていい程ない。

セシル・テイラー・ピアノ・ソロ(紙ジャケット仕様)

セシル・テイラー・ピアノ・ソロ(紙ジャケット仕様)

  • アーティスト: セシル・テイラー
  • 出版社/メーカー: アブソードミュージックジャパン
  • 発売日: 2005/06/08
  • メディア: CD

  オーディオ評論家菅野沖彦が現役のレコーディングエンジニアだった頃のアナログ録音で私の愛聴盤。演奏家と録音技師のデスマッチみたいな音楽である。勿論、音楽そのものも実に毅然としてカッコいい。


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Suger/Stanley Turrentine(動画貼付け) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 以前、スタンリー・タレンタインのことを書いてみてから取り上げたレコードを聴く頻度が少々上がった。

シュガー

シュガー

  • アーティスト: スタンリー・タレンタイン,フレディ・ハバード,ジョージ・ベンソン,ロニー・リストン・スミス,ブッチ・コーネル,ロン・カーター,ビリー・ケイ,リチャード・パブロ・ランドラム
  • 出版社/メーカー: キングレコード
  • 発売日: 2006/11/08
  • メディア: CD

 

取るにたらない内容ではあるけれど以前のテキスト  http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2009-11-18

 アップ後、本作を聞く機会が少々上がってきたので、You Tubeあたりに動画はないものかと探してみると意外と簡単に見つかった。当人にとってはあたり曲だったらしく、テレビ出演の際にも取り上げているらしい。

 

 
1970年代の、いわゆるフュージョンの台頭以来スタンリー・タレンタインの出音はそれまでの厚みがあって太く柔らかいトーンから軽いホンキングを交えたがなり気味の、それこそサム・テイラー風と言うか演歌テナーみたいなものにと変化している。オヤジテナーの芸風にますます磨きがかかってきた。初演は参加メンバーが順繰りにソロを回す長尺曲だったが、テレビ出演用のバージョンだとさすがにそういうわけにはいかなさそうで親方のソロだけをクローズアップした短縮版だがお気軽に接しやすくはある。

 


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Loving you/MInnie Riperton [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 あまたあるポップチューンのエバーグリーンの一つにこの曲は当然入っているものと私は決めつけている。 聞いていて少々こそばゆいような気分を喚起させられるがそれは親父の照れというものだ。歌詞の内容を私は未だに知らないがそれが恋愛にまつわるある場面や気分の事だというあたりまでは察しがつく。だからそのこそばゆい気分は何か恋愛感情に裏打ちされた記憶や想像に根ざしてもいるわけだ、やもめ暮らしの私ではあるがそんな経験がなかったわけでもない。 ともあれ名曲であり、名唱だ。言葉の壁を越え、理屈抜きでいつの時代にあってもビューティフル音楽がここにも一つある。


 

 確かミニー・リパートンはソロシンガーとして独立する以前にはスティーヴィー・ワンダーのバックコーラスを務めていたと何かで読んだ記憶があって、かの国の音楽シーンがいかに分厚い層を成しているかがよくわかる。

 デビュー曲からしてこの出来である上にその後彼女は将来を大いに期待されながら夭折してしまった。実働2年か3年の短い栄光である。だから実質、この一曲だけでミニー・リパートンは多くのリスナーの記憶にとどまり続けていて未だにその無垢な輝きはいっこうに減じられる気配がない。事実は小説よりも奇なり、という事か。音楽の背景めいた話題は別にしても、これを聴いて何も感じないような輩はもう、音楽になど一生縁を持つ必要はない。

 音楽そのものの色合いや歌世界の完成度に加えて悲劇のヒロインとしての神話性までがついて回るのだからこういう曲をカバーするのはなかなか勇気のいる事ではなかろうかとここでまた私は余計な勘ぐりを入れたくなるが少々調べてみるとさすがに名曲だけあって随分色々なシンガーによってカバーされているようだ。但し幾つか聞いてみた限りでは大体誰もがいかに忠実な物真似を演じるかというアプローチのようで神話性とはそういう事なのだ、というのは確かに一つの落としどころたり得る。

 しかし私はここで、先日持ち出した本作の事を書いておきたい。

The Return of the 5000 Lb. Man

The Return of the 5000 Lb. Man

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Collectables
  • 発売日: 2005/06/28
  • メディア: CD

  残念ながら私は動画を見つけられないが(あったとしての話だが)、本作中でLoving Youはカバーされている。勿論それはオリジンで聴かれるように可憐な風情をたたえた情緒連綿たる歌唱では全然ない。ノーズフルートとだみ声で途切れ途切れに奏でられるどす黒く、ひずんだ世界は本家本元とは全く裏返しに位置するといっても良い程にかけ離れた演じられ方ではある。しかし何故かここでのこのカバーは、どんなに忠実度の高い物真似カバーをも飛び越えて強烈にリスナーを捉えるだろう事を私は確信する。自分が自分である事の徹底的な立ち位置から発せられた、本歌とは似ても似つかないこのカバーにこそ本歌と比肩出来そうなくらい魂の根っこから湧き出してくるような何かが確かにある。

 本歌とは異なる色合い、というのはつまり異形の者に注がれる無遠慮な視線を弾き返して屹立する精神の強靭さであるように私は捉えている。誰でも内奥には何かしらハートフルな世界をとどめている。 リスナーをしてそう思いたくさせずにはおかない何か強烈な訴求がここには確かにあるのではないか。


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The Return of the 5000lb Man/Lasaan Roland Kirk(邦題:天才 ローランド・カークの復活) [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 私の身辺には病に倒れる同級生がぼつぼつ現れ始めてきている事はこれまで何度か書いた。 昨年だけでも脳関係で二人いた。一人は脳梗塞で幸い目立った障害は残らずに日常生活を送っているがもう一人は脳出血で現在リハビリ中だ。こちらも入院当初から見ると随分身体機能は回復してきたがまだまだ復旧途上の感がある。

 脳障害から奇跡の復帰を果たしたミュージシャンだからというわけではないが、不意にローランド・カークが聞きたくなった。

The Return of the 5000 Lb. Man
 
 
 
 
 
 
 
 左右どちらかは忘れたが半身不随の障害が残ったままでの再起第一作である。当然ながら複数のリード楽器をくわえて同時に異なるメロディーラインを吹くというかつての異能ぶりはもう披露する事が出来ない。がしかし、プレイヤーとして負ったハンディを跳ね返すかのようにここでの表現世界は物凄く豊穣である。事故なり病気なりといった音楽そのものとは直接関係のない背景を抜きにしても本作は見事な個人史の総括でありブラック・ミュージックの再解釈として瞠目すべき成果を上げた。
 
 音楽の傾向としては全く異なるが、似たような状況下で製作された傑作
Rock Bottom

Rock Bottom

  • アーティスト:
  • 出版社/メーカー: Domino Records UK
  • 発売日: 2008/10/28
  • メディア: CD
 
 
 
 
 
 
私は以前、Rock Bottomについて今となってはこっ恥ずかしい限りのしょうもないテキストを垂れ流した。
 
 どちらも私自身の個人史と重なるところがあるせいで大変思い入れが強いのだろう。
 
 最終曲がコルトレーンのGiant Stepsだというところに私は何か、大きなメッセージが込められているのではなかろうかと毎度聴き終える度に思う。病気なり事故なりによって身体的ハンディを背負い込んでなお、時にそれを逆手に取って人は表現者として成長し、成熟していく事はあるのだ。
だから身の上にどんな災厄が降り掛かろうとも決して自分に絶望してはいけない、と、筋違いではあるけれど私は結構浪花節的な感慨に耽る。
 
(追記)拙いながらも音楽そのものについて何かを書き留めておきたかったのだがテキストを書いている最中にいきなりブラウザが落ちて私の駄文はパーになった。だからこのテキストは途中から書き足したものだ。元々値などないテキストなので悔しがっても詮無い話だが時間と労力が一瞬で消滅するとやはり無力感に捕われて少々凹むが、気を取り直して本作の事をもう少し何か垂れ流してみたい。どちらの作品も大変肯定的なフィナーレで終わるところに私のような者であっても何事かを継続する力を与えられていると思いたいので。
 

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アイスホッケーのテレビ観戦 [身辺雑記]

 私が元々ものぐさなせいもあるのだろうが、スポーツには大して関心がない。自分がやるのも観戦するのも大して興味なんぞないのだ。

大体スポーツというのは個人のたしなみであってやりたい人が勝手にやっていればそれで良いと思っている。 オリンピックにも関心はない。寄ると触るとメダルメダルと騒ぎ立てる様子にはなんだか薄気味悪い気さえするし、選手が気の毒にも見える。自分がやった事もない競技種目の事でどうしてこうもキチガイみたいに毎日毎日テレビにかじりついて熱中できるのか不可解に思える人は結構目にする。フィギュアスケートでやれ4回転ジャンプだの3回転だのと色々気安く言い立てるが実際自分でスケートを穿いてリンクに立ってみるといい、3回転どころか転ばずに半回転する事だって一朝一夕に出来る事ではない、いやそれどころか滑走しながら飛び上がる事自体が物凄い恐怖を伴う事を一体どれくらいの人が知っているのだろうか。

 こんな事を分け知り顔で書くのは唯一例外として、私は子供の頃からスケートだけはやったからだ。別にスケートがとびきり好きだったわけではない。育った家の向かいに小学校があり、スケートリンクがあって、私の生家は大して裕福な家ではなかったので冬に遊ぶと言えばスケート以外の事がなかったからだ。 だからオリンピックの放送もスケートの競技が放送されている間はテレビを切らずに区切りのいいところまでは何となく眺める。

 私は10代の後半から20代のはじめまでを釧路市で過ごしたせいか、当然のごとくアイスホッケーに染まった。子供の頃同様金はなく、時間だけはあったので冬期間は夜になると必ず寝起きしていた学生寮の仲間連中とアイスホッケーに興じた。 この頃も他にする事がなかったのでとにかく毎晩即席チームを編成して無茶苦茶に試合もどきの事をしまくり、毎日打撲だの打ち身だので体のどこかをさすっていた。獰猛さを喚起するという点で、見るにせよやるにせよ私が知っている限りこれ以上の興奮が得られるスポーツはない。

 だからオリンピックの放送もアイスホッケーだけは例外で、これだけはテレビにかじりつく種目なのだがあいにくこの競技は日本ではさっぱり人気がない。競技人口はだんだん減って実業団リーグも萎んでいく一方。国内だけではチーム不足でリーグ戦の開催もおぼつかない現況は大変淋しいものがある。堤某はいけ好かないオヤジだったがことアイスホッケーに関する限り大変有り難い大旦那だったことを今となっては痛感する。そんなわけで日本のチームはオリンピックに出場さえ出来ていないのだからただでさえ人気のないこの競技種目は尚更放送枠が小さい、というよりも殆どない。そして私はそのことを大変理不尽に受け止めており、元々好きでもないテレビが余計嫌いになる。

 オリンピックの閉会日に行われる種目というのは期間全体を通じてのクライマックスであり、夏であれば男子マラソン、冬はアイスホッケーの決勝がお約束だ。きちんと調べたわけではないがこれまでを通じてそれが変更されたことはないはずだ。 今回の開催地であるバンクーバーは国技でもあるわけで現地での熱狂ぶりは想像するに余りあるのだが私は今回、決勝戦を見逃したことを大変後悔している。

 これまでの大会では深夜枠ではあるけれど殆ど必ずアイスホッケーの決勝戦はきっちり放送されていて私は眠い目をこすりこすり最後まで見ていたものだが今回はどうだったのだろうか。 本日公共放送でオンエアーされたダイジェストの特番ではただの1カットもアイスホッケーは登場しなかったことを実は大いに腹立たしく思っている。大袈裟な話ではなく、オリンピックのアイスホッケーまでもが見られないようでは私にはもう、放送受信料を払う理由が全くなくなってしまうのだ。

 かろうじて一昨日、カナダとスロバキアの準決勝を風呂上がりに見ることが出来たことがせめてもの救いだろうか。第3ピリオドでの攻防は手に汗握る熱戦で番組を見終わった後、年甲斐もなく物置から若い頃に使っていたスケートとスティックを引っ張りだして近所の学校のスケートリンクに繰り出してひとりでしばらく走り回っていた。それで只今、じつは体中が筋肉痛である。

 開催国で、国技での金メダルともなればかの国の熱狂ぶりはいかばかりかと想像を巡らせてみたが何しろ私は英語の読解力が全然ないのでどれくらいのボルテージなんだか量りかねている。拾ってみた画像も会場の外で喜んでいるギャラリーばっかりで会場の様子が分からない。当然なのだろうが動画も見当たらない。You Tubeに何かないかと探してみたがもっぱら予選リーグで5-3でカナダに勝ったアメリカの側からの投稿ばっかりなのだが・・・・コメント欄を見て吹き出した。

http://www.youtube.com/watch?v=r5d9Hg2SwTw&feature=related

 アメリカ、カナダ双方のファンが猛烈な罵倒合戦を繰り広げている。決着がついた翌日でこのヒートぶりなのだから決勝戦はさぞかし物凄いムードだったのだろう。冒頭、私はスポーツなんて所詮は個人のたしなみ、などと訳知り顔で書いたが自分の入れあげている種目についてはこんな感情もわからなくはない。実は誰憚ることなくアイスホッケーに熱狂できるカナダという国にはちょっとした羨望が常にあることを白状しておく。  


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Go/Paul Chambers(ゴー/ポール・チェンバース)その2 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 前回の続きです。http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2010-01-30

思いついた事を全部書こうとすると長くなりすぎる嫌いがあるので分けてみた次第です。

 

ゴー

ゴー

  • アーティスト: ポール・チェンバース,キャノンボール・アダレイ,フレディ・ハバード,ウイントン・ケリー,ジミー・コブ,フィーリー・ジョー・ジョーンズ
  • 出版社/メーカー: サブスタンス
  • 発売日: 2002/07/24
  • メディア: CD
 
 
 
 
 
 本作のレコーディング・データは1959年2月2、3日の二日間にわたって行われており二日の録音ではドラマーはフィリー・ジョーで三日にはジミー・コブがつとめている。
 
 ここで当時、参加メンバーの多くが在団していたマイルスのバンドに照らし合わせると少々興味深い。
フレディ・ハバードをマイルスに替える。ジョン・コルトレーンをテナーサックスに加える。ウィントン・ケリーをレッド・ガーランドに替える。ドラマーはフィリー・ジョーとすると、
【Blu-spec CD】マイルストーンズ

【Blu-spec CD】マイルストーンズ

  • アーティスト: マイルス・デイビス,レッド・ガーランド,ジョン・コルトレーン,ポール・チェンバース,キャノンボール・アダレイ,フィリー・ジョー・ジョーンズ
  • 出版社/メーカー: SMJ(SME)(M)
  • 発売日: 2009/02/18
  • メディア: CD
 The Rythm Sectionがバックをつとめるオフィシャルレコーディングでは有終の美といったところか。レコーディング・データは1958年4月2、3日の二日間となっている。
 
 ここから約10ヶ月後が本作のレコーディングで、約一ヶ月後に近似したメンバーで録音されたのが
Blu-spec CD カインド・オブ・ブルー

Blu-spec CD カインド・オブ・ブルー

  • アーティスト: マイルス・デイビス,キャノンボール・アダレイ,ジョン・コルトレーン,ビル・エヴァンス,ウィントン・ケリー,ポール・チェンバース,ジミー・コブ
  • 出版社/メーカー: SMJ(SME)(M)
  • 発売日: 2008/12/24
  • メディア: CD
  1959年3月22日だ。4月22日分の録音についてはウィントン・ケリーは参加していない。
1960年代に入り、御大とリズムセクションはそのままでキャノンボールをハンク・モブレイに入れ替えると
サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム+2

サムデイ・マイ・プリンス・ウィル・カム+2

  • アーティスト: マイルス・デイビス
  • 出版社/メーカー: ソニー・ミュージックジャパンインターナショナル
  • 発売日: 2005/07/20
  • メディア: CD
 但し、ここでのコルトレーンはまるっきりのゲスト参加だ。ここからゲストを抜くと
コンプリート・ブラックホーク

コンプリート・ブラックホーク

  • アーティスト: マイルス・デイビス,ハンク・モブレー,ウィントン・ケリー,ポール・チェンバース,ジミー・コブ
  • 出版社/メーカー: ソニーミュージックエンタテインメント
  • 発売日: 2003/07/02
  • メディア: CD
 ウィントン・ケリー、ポール・チェンバース、ジミー・コブというリズム陣はマイルスのバンドの歴史の中ではやや軽めでこじんまりした印象がないでもないが、こうして後から時間に沿って辿ってみると案外、バンド活動としては安定した一時期を形成していた事を再確認できる。更に言えばポール・チェンバースはその在団期間が8、9年にも及ぶわけで、バンドを去来した全てのサイドメンの中でも最長の部類に入る。
 そしてこの在団期間はそのままプレイヤーとしての最盛期でもあったわけで、60年代中期以降は急速にその躍動感を失っていった。
 
 かような時間の流れの中から生まれたこのボス抜きセッションだが、私には未だに整理のついていない同種のレコーディングが一つある。フレディ・ハバードが抜けてコルトレーンの加わったこちらもまた問答無用に素晴らしい。
 
キャノンボール・アダレイ・クインテット・イン・シカゴ

キャノンボール・アダレイ・クインテット・イン・シカゴ

  • アーティスト: キャノンボール・アダレイ,ジョン・コルトレーン,ウィントン・ケリー,ポール・チェンバース,ジミー・コブ
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2003/04/23
  • メディア: CD
  内容については別の機会に譲るとして、裏ジャケのライナーによれば本作のレコーディングデータは1959年2月3日となっている。Goと同日なのだ。そして、Goはニューヨークで録音された事になっている。同日のうちにNYとシカゴで二つのレコーディングをこなしていたとすればかなりのハードワークではなかろうか。そもそも1959年に於いてそのような行動が物理的に可能だったのだろうか。この辺は単にどちらかが記載をミスしただけなのかもしれないが、あるいはそんな事も当時の彼らには可能だったのかもしれないと思わせるくらいどちらもエネルギッシュな快演だ。
 
 憶測を交えて補足のような事を書くとVee Jayはシカゴを拠点とするレーベルなので、録音場所の記載が間違っていて、実はNYではなくシカゴでの録音という事もあり得なくはない。そうだとすれば行動の流れにはある種の整合性が出てきそうに思う。
 
 まあ、音楽とは直接関係のない話に終始しているが、この時期、この辺の録音を聞いているとついついマイルス一党のあれやこれやに芋づる式に手が伸びてしまうのが私の長年の習性という事だ。

 


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Go/Paul Chambers (ゴー/ポール・チェンバース) その1 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 格段テーマを決めて色々掘り下げて聴く、という事をせずに何となく思いついたものをあれこれ引っぱり出しているうちにある時気づいたのだが、ウィントン・ケリーのピアノには何だか生理的な好ましさを感じる。

 ウィントン・ケリーといえばそのキャリアを通じてドラムにジミー・コブ、ベースにポール・チェンバースで構成されるリズムセクションがお約束のようなもので、実際このメンツをバックしにしたプレイヤーのレコーディングは随分多い。

 更に言えばこの3人のうち、ポール・チェンバースの録音歴となると全くもって膨大で、私はまだこの人の詳細なディスコグラフィーというものを見た事はない。1950年代中期から60年代半ばまでの、実質10年そこそこの演奏歴だが殆ど便利屋よろしく呆れるほど色んなセッションにつきあっている。 e0122780_21481270.jpg  ある時、田野城寿男さんのアフター・アワーズでちらっと聞いたのだがベースというのはなかなか含蓄深い楽器で、聴衆から見ると裏方そのものでありながら実際に共演しているプレイヤーは全員その挙動を伺いながら次に自分が何をするのかを決めるくらいの存在なのだそうだ。

 ベースマンの系譜にあってポール・チェンバースはスーパーBクラスみたいな位置づけで、バンド全体を自分のカラーに染め上げるように強固な大枠の楽想を持つミュージシャンではないが、所謂ハード・バッパーとしてどんな編成にあっても収まりの良い、円満なプレイヤーだった。

 きっとこういう資質が共演者として好ましかったのだろうな、と思わせるのはバッキングでもソロでも見せ場を作りながらも必要以上に強烈な自己主張はしないそのバランス感覚だ。だからなのだろうが同世代のベースマンの中では比較的リーダー作は多い方だと思う。

 プレイヤーとしての側面を思い切りクローズアップした企画ではないが肩の凝らないブロ−イング・セッションとして私が結構よく聴くのがVee Jayに吹き込んだ本作だ。

ゴー+

ゴー+

  • アーティスト: ポール・チェンバース,ウィントン・ケリー,フレディ・ハバード,キャノンボール・アダレイ,ジミー・コブ,フィリー・ジョー・ジョーンズ
  • 出版社/メーカー: BMGビクター
  • 発売日: 1997/06/21
  • メディア: CD

現在は廃盤のようでAmazon.comでは中古盤しか手に入らないようだ。Vee Jayというマイナーレーベルは例えばブルーノートやプレスティッジよりも更にマイナーなのでいつでも手に入るというものではないらしいのがちょっと残念。

Go.jpg

ジャケットデザインはマイルスのWalkin'に似ている。

 

ウォーキン

ウォーキン

  • アーティスト: マイルス・デイビス,J.J.ジョンソン,デイヴ・シルドクラウト,ラッキー・トンプソン,ホレス・シルヴァー,パーシー・ヒース,ケニー・クラーク
  • 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
  • 発売日: 2005/09/22
  • メディア: CD

 但しここでのベーシストはパーシー・ヒースだ。このあとレギュラーバンドを結成するにあたってポール・チェンバースに白羽の矢が立つ事、枯れのミュージシャンとしての最盛期がそのままマイルスのバンドでの在団期間だった事を思うと何かを連想させるジャケットデザインに思えるのは穿ち過ぎだろうか。

 音楽そのものについては生きのいい若手が一丁上がり的に仕上げたブロ−イングセッションで、あれこれ理屈をこねる類いの音楽ではない(こねたいけど)。録音は1959年の2月2、3日の二日間に分かれている。ドラマーは二日のセッションがフィリー・ジョー・ジョーンズ、三日のセッションはジミー・コブでマイルス繋がり。所謂ボス抜きセッションだが和気藹々という感じだ。 二日のセッションはスタジオライブのようでソロの合間に拍手が入るが気のせいか私にはこれがオーバーダブさせたもののように聴こえる。

 ポール・チェンバースのプレイはオフマイク気味に録音されているせいか本作は尚更リーダー作としての印象は薄いが替わりにと言っても何だが全編ウィントン・ケリーの全キャリア中でも最上級と思えるくらい張り切ったプレイが聴ける。私がとりわけ気に入っているのは三曲目Julie Annのイントロで、この日のウィントン・ケリーには何かよっぽど嬉しい事があったのではないかとさえ思えるくらいだ。正直なところ、この出だしを聴きたくて私は本作をしょっちゅう棚から引っぱり出している。

 ドラマー二人を聴き比べるのは本作の楽しみ方の一側面だが意外にもここではジミー・コブのプレイの方に活気を感じる。一曲目のリムショットなどは本来だったらフィリーの見せ場となるプレイのはずで、もしも予備知識なしにブラインドでドラマーの当てっこをしたらあべこべになりそうなくらいだ。

 当然ながらくどくど書いても文字は所詮文字であって音楽そのものではない。 何せ、楽しいセッションである。(続く)


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ねこタクシー [居候の生態]

 民放のテレビ番組などロクなものがないと私は決めつけているので普段見る事はない。 だからといって公共放送の内容が素晴らしいとも全然思わないが。

 今晩たまたま、居間で居眠りをして目が覚めるとつけっぱなしのテレビにはピーター・バラカンが何事か英語で語る番組が放送されていた。英語のヒアリング能力はからっきしなので見ていてもチンプンカンプンでさっぱり面白くない。それで適当にチャンネルを変えるとたまたま『ねこタクシー』なるドラマが放送されていた。

 ドラマそのものをたいして面白いとは思わなかったが登場するデブ猫を眺めているうちにここしばらく我が家のサンデッキには現れなくなった半野良猫の事を思い出した。

 

IMGP1260.jpg

 

 人相(猫相?)は良くなく、見た目も薄汚いがメタボ風の体型ともっさりした挙動は何だか似ていて、ついついあの野良公は今頃どの辺をうろついているのだろうかと考えた。

 

 

 携帯電話の上に座り、小便を垂れて壊すくだりだけは笑えた。

 私は3月に引っ越す事になるのでもうデブ猫と顔を突き合わせる事もないはずだ。デブ猫の寄生先である叔母の話によれば相変わらず飼い猫の餌を横取りしては軒先で居眠りを決め込み、夜になればその辺をほっつき歩いているらしい。私もデブ猫もそれぞれてきとうに食いつないで勝手に生き、いつかどこかで野垂れ死にするのだろう。それでいいのだ。

 ドラマについて特に思うところはないのだが、脇役で登場する高橋長英は私の好きな俳優だ。あと、前後で歌われるテーマソングの曲調が結構気に入ったのでどこかからダウンロード出来ないものかと探し始めている。


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Spiritual Unity/Albert Ayler(スピリチュアル・ユニティ/アルバート・アイラー)その3 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

  前回の続きです。http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2010-01-03

 再発によって曲目が変わる事を前回書きかけたのだがあらためて私が知っている範囲で整理しておきたくなった。

私の手元にあるCDはヴィーナス・レコードからの再発盤でこれには5曲収録されていて順番は以下の通り。

(1)Ghosts First Variation, (2)The Wizard, (3) Spirits, (4)Ghosts Second Variation, (5) Spirits II

LPレコードでの最初のリリースは赤紫色のジャケットだったのだそうだ。私は現物を見た事はないがかなり希少なものだと聞いた。

 

41EN5RWXSAL._SS500_.jpg

 

CDに付属されているライナーによれば、ここでの収録曲は上記の(1),(2),(5),(4)の順だそうだ。

セカンドプレス以降はジャケットの色がお馴染みの黒に変わり、曲順は(1),(2),(3),(4)となる。現在CDとしてリリースされているのもこれに則っている。私が学生の頃購入したのはこのバージョンで国内再発盤だった。

 

matunoah-img600x450-1253020473fgyvpp75985.jpg

 

 随分聴いたあとにもう一枚再発盤を手に入れる事にしたので、最初に買った盤は兄に譲る事にしたが、全くと言っていいほど関心が向く事はない類いの音楽らしい。大変残念。

 それで私が二枚目として手に入れたのはイタリアのBASE Recordというマイナーレーベルによるプレスなわけだが針を降ろしてみて驚いた。曲順が(3),(4),(1),(2)となっているのだ。慌ててジャケット裏の曲順表記を確認してみたが入れ替えた様子はなく、セカンドプレスと同じである。という事はセンターレーベルをA面、B面逆に貼ってあるという事になる。 この記事を書くために間違いがなかったかとさっきあらためて聴き直したがやはりレーベルが逆に貼ってある事が確認できた。ロットのうちの一枚だけをたまたま間違えたのか、1ロットまるまる貼り間違えているのかは不明だがいずれにせよ珍品というべきではなかろうか。

 ヴィーナス・レコードからの再発CD についてはCDPのプログラム機能を利用してファースト・プレスとセカンド・プレスの両方をプレイバック出来るというお遊びが可能だ。 (3)と(5)は同じ曲名だが内容は全く別だ。これは別テイクの内容がマスターとかけ離れているという事ではなく、テーマからして全く違う曲である。どうもアルバート・アイラーは曲にタイトルをつける事には無頓着な傾向があったのではないか、と、CDのライナーには書かれている。


 コレクターまがいの独りよがりな整理はさておくとして、いずれのバージョンであったにしても自由である事の辛さ、厳しさ、そして喜びをこれほど切実に訴えかけてくる音楽はそう滅多にない。私にとってそれは毛ほどの疑いも差し挟む余地のない真実である事は間違いない。

 


タグ:ESP BASE Record

灯油泥棒 [身辺雑記]

 しばらくぶりの更新というのは何だかばつの悪い思いだが書き残しておきたいハプニングが一つ。

 あと二ヶ月ほどでお別れとなる拙宅だが昨日、居間のソファに転がって夜中にうたた寝を決め込んでいると不意に寒くなって目が覚めた。

近くでピーピーと聞き慣れない音がするので寝ぼけ眼でその方を見るとストーブが途中消火したとのエラー表示が出ていた。 不審に思いながら再点火させたが結果は同じでどうも灯油のタンクが空になったらしい事を悟った。

 これまで何度も書いたように私の住む土地は極寒の代表みたいなところだ。早朝外気温が-20℃などざらにあるようなところだ。

 燃料販売店には3月で引っ越す旨は伝えてあるが給油をストップするには早過ぎる。少々腹立たしい気分で屋外に出てホームタンクのゲージを見てみた。

pic01.jpg

 フロートの位置はものの見事に底をついていた。何だか変な気分で私はそれをしばらく眺めた。何かが引っかかる。足下を何気なく見ると雪が黄色くなっていた。立ち小便のあとだとすぐに気づく。ここ三日ばかり、所用で札幌に言っており留守にしている間に誰かがここに来たのだ。

 今日になって販売店に連絡し、しばらくして現れた配送担当のおじさんとしばらく話し込んだ。

 冬季間、我が家での灯油消費量は大体一ヶ月あたり大体200リッター弱であり、配送担当の方は先月末頃補給を済ませたので空になっている事がどうにも腑に落ちないとの事で首を傾げていた。かれこれ9年間一貫して配送してくれている方なので灯油の減り具合は私よりも詳しい。 これまで月一の補給でゲージが半分以下になっているのを見た事がないのでどうにも納得いかないと言う。

 あらためてホームタンクの周辺をふたりで見てみると 黄色い雪(立ち小便のあと)の周りについているのは明らかに私たちとは別の足跡だった。灯油を抜き取り、ついでに立ち小便までかましてくれた不届き者がいたという事だ。

 現在の家に引っ越してきてから9年、それまで住んでいた実家の事を含めても、灯油泥棒に遭遇したのは初めてだ。何とも腹立たしいような寂しいような気分だ。世の中が荒んでいるというか切羽詰まっているというか、そういう時代の気分はこんな風に反映されるのだろうか。

 私はおとといの夜、札幌で以前の同級生達と存分にどんちゃん騒ぎのクラス会を決め込んでいた。したたか酔っぱらった後に宿へと戻る途中、小腹がすいたので24時間営業のハンバーガーショップに立ち寄ったときの事、店内には明らかにホームレスと思しき人たちが4人ばかり、テーブルに突っ伏して仮眠をとっていた。私の住む土地寄りは幾らか温暖だとは言え、やはり札幌だ。この時期の野宿は凍死と直結するからやはりこういうところで仮眠をとらざるを得ないのだろう。勿論それは気の毒な光景だがそこに至るまでの時間を想像すると気持ちの中には暗く濁ったものが渦巻いた。

 彼らの中には住むところを失うまでの過程において、冷えきった自宅にいたたまれなくなって他人の家の灯油を盗むまでに及んだ方もあるいはいるかもしれない。 勿論私の家から灯油を盗んでいった者が金銭的に逼迫していた人だとは限らないが、何故かそういう連想が働く。

 ここ数年、近所で新築される住宅は殆ど全てがオール電化だ。最早ホームタンクのない新築住宅が標準となった感さえある。それは私が出くわしたような灯油泥棒の被害を回避するための方策という事も一つにはあるのだろうかと考えた。金がないところで近所の家を尋ねて申し訳ないが灯油を少し分けてくれと尋ねてくる人が私が子供の頃にはいたような気がする。困ったときはお互い様の近所付き合いがその頃にはまだあったという事だがいつの間にかそんな場面はきれいに消えた。電化住宅に留守宅を狙う灯油泥棒とは、内も外もとんでもなく寒々しく、寂しい世の中になったとつくづく思う。

Apostrophe (')

Apostrophe (')

 最初の曲は邦題が『恐怖の黄色い雪』。何だか今回の件と関係があるようなないような。

中古パソコンを購入して反省すること [パソコンのこと(主にMac)]

 中古品のiMac G5を購入してから1年経った。

つくづく思うに、何事につけ中古品というのはその道に明るい人でなければ手を出さない方が無難だというのをここ数ヶ月で思い知った。色々問題はある。ドライブレターの認識が物凄く不安定な事(特にFirewire,こんなザマではこの企画が普及しないのも納得がいく)、内蔵HDのシークに最近物凄く時間がかかるようになってきた事、同じく内蔵DVDドライブはここしばらくこれまでに焼いたDVDをさっぱり読み込まなくなってしまった事(これは中古品である以上仕方がないか)、まあ他にも細々あるがリカバリーDVD-ROMが付属していないタマを掴んでしまったのいうのが私としては大ポカもいいところで再インストールもままならない。

 リカバリーDVDには無条件で入っているiLifeがこの中古G5では削除されているのは今になって考えると出品者がそれを切り離してバラ売りしたからだろう。今更詮無い話だが何ともまあ商魂逞しいというか、それくらいつけてくれたっていいじゃないか、と、ついつい恨み言の一つも言いたくなる。大体、新品でパソコン本体を購入すればリカバリーディスクは必ず付属してくるのだから中古品ではあってもそれは付属されるのだろうなどという私の予断が大甘だった。

imac_g5.jpg

 似たようなチョンボを以前にも私はやらかしている。今の商売を開業した頃、Windowsのパソコンも一台用意しなければ、と、思い立ったはいいが金がないので中古品を物色していたらそのパソコンショップの店長に勧められた本体には「あの」Windows Meがインストールされていたのだった。

 それがとんでもなく出来の悪いOSであることは私程度の者にも予備知識としてあった。 懸念を示す私に対してその店長はここにインストールされているWindows Meは最終バージョンで大変安定しており、色々パッチも当ててあるので何の心配もないと力説してくれた。最終バージョンで安定しているとはいったって所詮Meじゃないか、と、撥ね付けておけば良かったのだろうが万年金欠の私はその時結局値段に負けてリカバリーディスクのついていないその本体を買った。

 はたしてそのPCは使い始めるようになってから幾らも経たないうちにバンバン落ちまくるようになった。ものの一ヶ月かそこらではなかっただろうか。とにかくお仕事のツールとしては全く使い物にならない有様で頭に来たので手元にあったWindows 98SEにダウングレードしてやろうかと思い立ったがやり方がわからず、お仕事は何とかMacだけで都合が付く事も把握出来てきたのでそれっきり。忌々しい3万円の中古Me機はそのまま物置に叩き込んだ。高々3万円で何をそんなにいきり立つか、と、嘲弄される方は勿論おられるだろうが貧乏人にとってはやはり笑って済む金額ではないし、何よりこんな無駄遣いをした私自身のスケベ根性なり眼力のなさが頭に来た。

 それから4年かそこらして、今度は同じような失敗を今度はMacでやらかしているわけだがこれはもう、私の学習能力のなさとしか言いようがない。 内臓HDが心許ない、修復しようにもリカバリーディスクが手元にない、それを買うなり借りるなりして再インストールしようにも今度は内蔵DVDドライブがまともに動かない、いっそ新品の本体を買おうにも貯金をあまり簡単に取り崩したくはない、と、何から何まで無い無い尽くし。これはもう、苦笑いでもするしかない、かなw

幸い本体はまだ何とか用をなす体ではあるのでしばらくはこの、ちょっとした不条理の中でもがいてみる事にしてみようと決め込む次第です。


書を捨てよ町へ出よう(1) [映画のこと(レビュー紛いの文章)]

 度々私のブログにご訪問いただいているぼんぼちぼちぼち様のブログ『冷たい廊下』をしばらく前から私も拝見させていただくようになった。

http://bon-bochi.blog.so-net.ne.jp/

 開設間もないが既に物凄い数のnice!がついている。 才能とはこういう事なのだと思います、お世辞は抜きにして。ブログ全体が目下進行中の一つの物語のようで唸らさせる。虚実の境界線を自由自在に行き来する様子とはこういう事なんだなあと感服する次第で、今日日、下手な小説を出版物として買ってきて読むよりもよほど刺激がある。

 それで、エントリーのうちの一つに寺山修司についてのテキストがあって、これに刺激を受けた私は年が明けてからたまたま持っていた初期の映画を一日一つずつ立て続けに見る事を決め込んだ次第。

書を捨てよ町へ出よう 【低価格再発売】 [DVD]

書を捨てよ町へ出よう 【低価格再発売】 [DVD]

  • 出版社/メーカー: ジェネオン エンタテインメント
  • メディア: DVD

  処女作にして永遠の問題作というべきか、あらゆる意味で凄い。

 冒頭、津軽弁で滑舌のあまり良くないモノローグを語る主人公が、だんだんズームアップされてスクリーンに大写しになり、カメラに向かって(という事は入場料を払って映画を観ている観客に向かって) 『そうやって椅子に座ってスクリーンを眺めていたって何も変わりゃしねえんだ!作り話に入れ込んで舞い上がってんじゃねえよ!』といった内容の怒声を張り上げる。

 これからの二時間強は予定調和の娯楽としてではないのだぞ、と、初っ端から宣言するのだ。何とも挑発的なオープニングだ。きっと公開当初はここだけでも面食らった観客が相当いたのではないだろうか。そして、多少想像を逞しくしてみると監督である寺山修司は映画という表現形態で一番やりたかった事を一番最初に持ってきたとも思える。「名刺代わりに一発」みたいで私にとっては痛快な出だしだ。


 所詮は作り話、と言ってしまえば身も蓋もないのだがそれでもその映画を見続けたおよそ二時間には何かしらの意味はあったではないの、と、観客の側である私が歩み寄っていく類いの映画にはもう一つ心当たりがある。

 

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 こちらは監督自身によってエンディングに、観客をせせら笑うようにして語られる。私にとってはショッキングな映画だったが寺山修司はこれより実に5年も早くこの禁じ手を発見していた事になる。いいんだか悪いんだかわからないが何しろ先駆的ではある。


 今日に至るまでこのデビュー作は観客を切り刻み続けていることはネット上の評価でも明らかだ。こちらのリンクなどを見ると世間一般の受け止め方が如実に現れている。

http://www.jtnews.jp/cgi-bin/review.cgi?TITLE_NO=5457

 まさに評価はまっぷたつに別れていて、大勢の罵倒と少数の熱狂的支持が入り乱れる。本作はある意味、寺山修司の自伝的な内容だが勿論映画の中でそのような注釈があるわけはない。虚と実、自分と他人、公と私、などなど、色々な対立概念がおよそ説明もなくごちゃ混ぜになって138分間絶え間なく観客に叩き付けられる。 先のリンクで語られるレヴュワーの不快感のうち公約数的なものとしては独りよがりな時間につきあわされる事のクソ面白くなさ、つきあった時間の空疎さというのが目立つ。

 ただここで、贔屓の引き倒しみたいな屁理屈をこねるわけではなく、私などはそれこそが寺山修司の狙った反応だったのではないかと考えている。きっとあの世で寺山氏は手を叩いているのではないか。

 他人の独りよがりな自分物語につきあわされる事のクソ面白くなさやかったるさ、自意識の排泄行為に利用されて時間を空費してしまった虚しさなど私たちの日常では至る所に転がっている。 例えばの話、他人の会話を立ち聞きするのは決して良い事ではないけれど、どこかのカフェみたいなところで群れて会話しているおばさん達(別におばさんに限った話でもないが)の様子を伺ってみるがいい。昨日何を食ったとか、あそこで滑ったとか転んだとか、誰に何を言われたとか何を言い返したとか、およそどうでもいいような日常生活の断片を脈絡もなく垂れ流し続けている。当の本人はある物語の中を生きており、何かしらのドラマツルギーを実感しているだろうが他人の目から見ればそれらは殆ど全てその人には何の関係もない話題ばっかりで垂れ流しているその人にしたところで時間があと百年くらい経ったらこの世に存在していた事が地球上の誰の意識の中にもないような小市民でしかないのだ。そして更にちょっと注意してみると実のところ、こういう会話は実は全然会話として成立していない事もわかる。めいめいがそれぞれの垂れ流す言葉の隙を狙って自意識の垂れ流し合いをやっているだけで相手の話など殆ど聞いていないではないか。

 やたらめったら言葉が飛び交いながら実は全然コミュニケーションなど出来ていない人間関係の空疎さを描いた映画というと連想するのが

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 そういえば寺山修司の映画は映像のディティールに於いてフェリーニと通じる肌合いがあるようにも思う。


  映画の後半で、主人公の祖母が街頭で身の上話を語り始める。自分には身寄りがなく、面倒を見てくれる人がいなくて困っているが実は大金を持っていると言った内容だ。それでばあちゃんの周辺にはざわざわと通りすがりの人が群がり始めて色めき立った目つきが集中する。しかしそれはでまかせの嘘八百であり、他人の関心を買いたいがための思いつきでしかない。たまたまその場に来た隣人の金さんが祖母の虚言をなじると途端にそれまで群がっていた人たちの雰囲気が険悪になる下りがある。

 嘘をついて他人の関心を買おうとするあり方への道徳的な非難はそこに込められているのだろうがそれ以上に、群がった群衆の関心は祖母の語る身の上などではなく、実は所持していると彼女が嘯く金に対するものに過ぎないのだという人間観がここには示されている。長らく往来のなかった知人がある日出し抜けに現れて身の上話を延々と語った挙げ句、それで用事は何なのかと問うと借金の無心だった事には何度か身に覚えがある。

 翻ってこの映画の監督である寺山修司は、この、一見支離滅裂な138分間にはまり込んでしまった事で憤慨したり後悔したりする観客に向かってこういう事を伝えたいのではないか。無意味に錯綜した独りよがりで陳腐で個人的な物語に他人を無理矢理つき合わせるその厚かましさや独善性を、あなた達もどこかで無自覚にやらかしているのではないのか、あなた自身が思っているほど他人はあなたの人生模様になど関心は持ってくれちゃあいないものだぜ、と。(この項続く)


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Spritual Unity/Albert Ayler(スピリチュアル・ユニティ/アルバート・アイラー)その2 [音楽のこと(レビュー紛いの文章)]

 本作については2年ほど前に自意識の垂れ流しのような駄文を恥知らずにもアップした事がある。

http://r-shim47.blog.so-net.ne.jp/2007-11-06

 全くもって我ながら、よくもまあこんな独りよがりな自己告白をぶちまけたものだとは思うが、それくらい骨の髄まで染み付いた音楽のうちの一つだという事は間違いない。「人生の節目にさしかかったところで意識の中に鳴り響く音楽」のうちの一つでもあるのも未だに変わらない事を正月休みのうちに聴き直してみて再確認出来た。

Spiritual Unity

Spiritual Unity

 学理楽典の知識など全くない私だが、拙いながらも音楽そのものについては何か書き残しておきたいので再度取り上げたくなった。

 これまであまり気にした事はなかったのだが、兵役中にはアーミーバンドでの演奏が役務だったアルバート・アイラーは決して何の音楽的背景もなしにいきなり現れた前衛坊やではない。そして1963年までの間はヨーロッパでの演奏活動ばかりなのだが記録されているブローイングはどれも既に先人の影響を断片的に垣間見せながらも所謂バップ調を飛び越えたものだ。 一体いつ、どのようにしてこういう演奏スタイルに関心を持ち、身につけたのだろうか。除隊した時期は1961年でありそれまで3年間の間、勤務地はパリだ。時系列で言えば、かのオーネット・コールマンの一党がNYに進出してセンセーションを巻き起こしていた頃とやや重複するのだがそれぞれ住んでいる土地は大西洋を挟んで遠く隔たっている。アイラー本人は生前、こういった事に関して全くコメントを残していないらしく、今となってはどうにも確認のしようがない。

 


 冷静になって聴いてみるとGhostなどでは特に顕著だが、テーマは4/4で演じられているし、リズムセクションの挙動はビートの山を微妙にずらしてメロディーラインを紡ぎ出していくアクセントのつけ方に対して終止正確にカウンターを返していく補完機能を果たしている。シンバルのレガートが人的な挙動としては殆ど限界近くにまで細分化されているのでちょっと聴きにはフリーリズムであるかのようだが案外そうでもない。

 

 最終曲であるGhost (Second Variation)にはソロの最中に2曲目The Wizradのテーマ部分が織り込まれる。もう一つ、初回リリースされたプレスに収録されているSpiritsの別バージョン(演奏内容は全く別の同名異曲)にはソロの最中に今度はGhostのテーマが聴き取れる。だから収録されている各曲には何かしら他の曲を暗示させる断片が埋め込まれており、それぞれに関連性がある。つまり本作は2テイクのGhostにサンドイッチされた関連する他の二曲からなる合計4パートでひとつながりといった風に全体の枠組みが予めかなりみっちりと構成されており、決してその場の思いつきで垂れ流された音楽を並べただけのものではない。

 これまで何度も何度も針を降ろし(CDでも買い直した)て、その都度薄々気になっていたのだが、アルバート・アイラーの音楽はどこかでディキシーランド・ジャズに結びついている。ディキシーの楽器編成にサックスは殆ど見られないがむしろ例えばバンク・ジョンソンのようなトランぺッターと共通するバイブレーションに聴こえるのは私だけだろうか。スイングもバップも素通りしてディキシーが別の方向で変化していった場合がアルバート・アイラーなのではないかと聴き返す度に思う。


 生かじりの理屈のような話はボロが出ないうちに切り上げるとして(汗)、本作のジャケットデザインを私は大変気に入っている。ESPレーベルでリリースされたもののうち殆ど唯一、アートとしての価値がありそうな装丁だと私は素人ながら大真面目に捉えている。悲しいくらいに無防備で生々しい感情が波打つこの音楽を絵として表せばこうなる意外にはなかったとさえ思える。

 

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  余談のような事を書き連ねていくときりがないのだが、アルバート・アイラーの命日である1970年11月25日はあの三島由紀夫が割腹自殺を遂げたその日でもある。それぞれには勿論何の関連性もないのだが私としては何か、意識の中で暗く符合するものがある。何かしら私の人生そのものに根深いところで絡み付いている音楽なのでいずれまた何か書き足したくなるかもしれません。


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